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ぬしや八兵衛 ―謎の人物「八兵衛」―

漆絵草花文菓子取
◆ 漆絵草花文菓子取(高岡市立博物館所蔵)◆

 ぬしや八兵衛は謎の人である。現在残るものは「漆絵草花文菓子取」十枚組だけで、あとは杳としてわからない。「漆絵草花文菓子取」(高岡市立博物館所蔵)の箱書きに「元禄七年『朱小まる盆十枚』高岡ぬしや八兵衛仕り候、十二月吉日」とあるが、ぬしや八兵衛が「漆絵草花文菓子取」の作者なのか、単なる所蔵者なのかは明確ではない。

 しかし、「漆絵草花文菓子取」より推察すると作者は相当練達した技術者で、色漆蒔絵の手法が城端風であるといえる。それは模様が写生風で簡潔であり、漆絵が非常に薄描きで描き割りを行っていることからも伺える。特に、牡丹花には甘汞(塩化第一水銀)を使っている。だが、花弁等に銀朱蒔きぼかしの手法を用いていること、水仙の葉等に銀消が見られ、城端蒔絵と趣きを異にする技術といえる。(城端蒔絵の歴代治五右衛門で金銀粉を使ったものは元禄より後世の七代と十二代だけである)

 「平凡社刊世界美術全集」には八兵衛作「漆絵草花文菓子取」の写真が載り、解説に高岡より城端へ移る過程のものであろうと記されているが、城端蒔絵は天正年間に始まり、当時は三代徳左衛門の信好と四代理右衛門亮好の頃であり、城端蒔絵の特色である白漆については百工比照にその作品を収める三代信好[元和三年(一六一七年)〜元禄十二年(一六九九年)]によって完成されたといわれている。

 時代は元禄七年より約三十年下るが、享保十年(一七二五年)前後に加賀藩細工所に「城ヶ端蒔絵細工」として畑弥五丞の名前が見られ「色漆之蒔絵朱漆等之細工只今此者一人」「先年御献上之御細工も相勤上」と書かれている。享保十一年五月十一日、弥五丞は若年寄中川式部より朱塗色漆蒔絵(密陀絵と思われる)の茶請盆二十枚の製作を命じられ、享保十二年四月二十七日に完成品に一悶着があったこと を「御用内留帳」は記録している。

 それは中川式部が盆の仕上がりが気に入らず、周囲が以前献上した城端蒔絵の菓子盆(下絵は塗師の五十嵐道甫、蒔絵は高岡の城ヶ端色絵蒔絵師吉兵衛)の先例を示して、城端蒔絵の何たるかを説得してようやく事無きを得たのであった。

 この記述を信用するなら、五十嵐道甫は二代続いており二代道甫の没年は元禄四年説と十年説とがあり、また城端蒔絵師は金沢にも高岡にも居たことになる。しかし、城端蒔絵の菓子盆はいつ頃献上されたかは分からない。二代道甫の没年等を参考に推察するしかない。また、ぬしや八兵衛と吉兵衛の関係も不詳である。その頃京都には俗称を八兵衛、あるいは八郎兵衛と称した初代中村宗哲がおり、千家の茶器塗師として金銀を用いずに優美な漆絵を製作したといわれている。これらの人との関係も不詳であり、「漆絵草花文菓子取」の前にも後にも、この様な技術は高岡には見当たらないのである。

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