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技術の追及が永遠のテーマ 石井勇助家三代

石井勇助顕彰碑
◆ 石井勇助顕彰碑(本陽寺)◆

 高岡市片原町本陽寺の境内に石井勇助顕彰碑がある。この碑は、初代勇助が没して百年にあたる昭和六十年十一月十三日に完成除幕されたものである。勇助三代の弟子である彼谷芳水と伝統工芸高岡漆器協同組合が相計って顕彰の碑を同家の菩提寺である本陽寺境内に建立したものである。碑撰文は富山県無形文化財指定勇助塗技術保持者である彼谷芳水があたっている。
 初代石井勇助は文化七年高岡片原町で指物を業とする家に生まれのち鉄砲町に住んだ。幼時から父の造る指物を見て育つうちこれを塗飾して独創的な物にへの希念を抱き、憧憬して止まぬ中国の明時代の漆芸を目途に日夜研鑚錬磨。至難な漆芸技を自修自得して独自の風格を持つ漆器を生み出した。その唐風の花鳥山水を多彩な技法で表わした勇助塗は時代の嗜好に投じ愛好されて名声自ずと高まった。明治六年オーストリア・ウイーンの萬国博覧会を初め明治十年内国勧業博覧会で妙技賞を、シカゴ、パリその他各地で受賞。勇助塗の名は海の内外に亘り又宮内庁御用品製作御下命を蒙ることも幾数度に及びその技を子弟に伝えて明治十九年七十七才で歿した。二代勇助、三代勇助共に父に劣らず出藍の誉れ高く勇助歿後農商務大臣から追賞を受く。文に曰く『夙にキュウ法を研究し一種の漆器を案出し子弟に技法を伝えその地の特産となる依って茲に追賞す』と。かくて勇助塗の名、宇内にあまねき多くの門弟は更に門弟を育てて高岡漆器の中核をなし昭和五十年通産省から伝統的工芸品として指定された。初代勇助歿して百年、恩澤につながる門人縁者漆器組合一同相諮り、ゆかりの此の地に石をたて遺徳を刻み後世に遺すものである。

昭和六十年十一月十三日
漆工芸勇助塗技術保持
富山県無形文化財指定 彼谷芳水 撰
彼谷芳水は勇助塗について次のように書いている。

 「その特長とするところは好んで古代朱色あるいはうるみ色(栗色)の艶消塗であり、その面に中国風の花鳥、山水、人物などを錆絵と称する技法(生漆と砥の粉を練り合わせた錆漆)でたくみに隆窪起伏を付して彩漆したもの、また漆で模様を描き金箔をつけた箔絵、あるいは存星の技法、密陀の手法などによるものだが、そのいずれもいたらずに繊細な技のみに陥ったものでなく一種の気韻をもち雅趣に富むものである」

 また、勇助塗には多くの作品に名石や青貝を彫刻して模様の部分に象嵌したり、網代やアンペラを木地に貼り付けて地紋とし、銘竹や紫檀なども取り入れている。部分的に金網を利用するなど、これはと思うものを加工して工芸材料としている。錆漆によって覆輪を作り、あるいは模様を囲って意匠に変化を付けるなど、その技法の幅は止まる所がない。このような技法は初代、二代の勇助によって確立されたもので、どちらの手によるものかを区別することはできない。家内工業として親子が共にひとつの仕事場でモノ作りをする訳であるから、その詮索の要もないだろう。しかし三代勇助の頃には、朱と透漆を交互に塗って彫漆する縞堆朱を得意としている。

 初代石井勇助に二人の男の子がいる。兄は二代勇助を継ぎ、弟は分家して勇介と号してともに漆芸に励み二人とも多くの門弟を持って勇助塗の名は高岡漆器の代名詞にさえもなっていった。

 二代勇助に師事した名工に三代勇助・中山久勇・高島弥太郎・増原長七がいる。中山久勇は名工の誉れ高く、多くの弟子を養成している。この人たちの中から銅鑼塗が生まれ、また増原長七は独立後、竹塗りを研究してこの技術を高岡漆器商品に数多く利用している。このように、勇助三代を中心として数多くの技法研究が進められてきたといって過言ではない。

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