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琉球と高岡をつなぐ技の謎

琉球螺鈿菓子取
◆ 琉球螺鈿菓子取(高岡市立博物館所蔵)◆

 石井勇助は中国『明時代』の漆芸に憧れ研究したといわれるが、唐物という漆器は中国のどの地方で作られたものであろうか。

 禅宗寺院の道具として、また、茶道に唐物あるいは唐渡りとして珍重されたのは、おおよそ室町以後のことである。一般的に唐物といわれたものは、中国、韓国、東南アジアから舶来したものの総称であり、中には琉球から来たものもあったであろう。

 幕末から明治時代の琉球は、中国との交易が極めて盛んで、特に琉球王朝は貝摺奉行所(王朝直営の漆器細工所)を設けて漆芸の研究を行った。製品の多くは中国明王朝、あるいは薩摩藩や徳川幕府への進貢品となったという。それらの一部が江戸末期に唐物として日本に入ってきたことは十分に推察できる。

 琉球王朝時代における漆芸の主な技法を調べると、沈金技法は一五〇〇年頃から、琉球螺鈿は一六〇〇年、堆錦は一七三〇年頃から始まったらしい。貝摺奉行所が置かれたのが一六一二年、初代勇助が生まれたのが一八一〇年ということからも、勇助塗のルーツを考える際は琉球物も検討してみる必要があろう。

 琉球物について興味深い話がある。沖縄県立博物館と浦添美術館に蔵品されている琉球漆器の花台、床卓、文箱、食篭、硯屏の木地作りの形姿。さらに、箔絵、螺鈿、堆錦で表現された唐風模様、また器形の中に埋め込まれたアンペラ、周囲の糸面作りや全体の雰囲気など、すべてが明治期の勇助塗に極似している。先年、黒田儀太郎も沖縄での展示会を見て「勇助塗ではないかと思ったくらい、似ていて驚いた」と述懐している。

 勇助塗の中心技法である錆絵は、琉球の堆錦をいかに表現するかに苦心の末、完成したという仮説もできる。堆錦は餅状に固練りにした色漆を薄板に延ばし、これを文様に切り取って器物に貼ったもので、高岡でも丹甫以来、錆地の型起こしもあり、勇助初期の松葉文や唐草などがそうである。錆で絵を描くことは古くからあり、現在、広島にある金城一国斎の高盛絵も勇助と同時代または僅かに早い時期から行われている。

 器胎の中にアンペラを埋めて装飾し、この縁作りに高岡でいう糸面付けを行うことも琉球の食篭などに見られ、技法、デザインに多くの共通項が見られる。また地紋の七宝紋、亀甲、模様としての唐人、唐子、竜、あるいは松葉の構成も勇助塗、高岡青貝による唐物意匠とまったく同一であることも興味深い。

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