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納富介次郎 ―校長先生と鯉盆―

鯉盆
◆ 鯉盆(富山県立高岡工芸高等学校所蔵)◆

 大きな目をした二匹の鯛が、お互いに抱き合っている。あるいは仲良くダンスを楽しんでいるようにも受けとれる。首にはさっそうと蝶ネクタイを決め、見るからにユーモラスな表情のデザイン盆である。とかく重いイメージになりがちな漆器のなかでは珍しく、軽やかでウィットに富んだ作品である。

 この鯛盆が作られたのは明治三十年。高岡工芸学校の校長をしていた納富介次郎が図案を担当、教頭の村上九郎作が彫刻を受け持って作り出したものである。学校の校長、教頭コンビによる合作であるが、あるいは二匹の鯛は、そのまま教育にかける二人の情熱の姿だったのかもしれない。当時、鯛盆は高岡漆器の代表的な人気商品として大ヒット。高岡漆器の名をいちやく全国に広める源流となった。また、そのユーモラスな鯛盆からは、当時の自由でのびのびとした学校教育の様子が、いきいきと伝わってくる。

 この鯛盆を作った納富介次郎とは、いったいどのような人だったのであろうか。  納富介次郎は、弘化元年(一八四四年)に今の佐賀県で皇学家、神道実行教初代管長・柴田花守翁の次男として生まれた。そして十六歳の時、佐賀藩士、納富六郎左衛門の養子になる。学を好み、書画詩歌に長けて小さいころから神童といわれ、その後には副島種臣、大隈重信、江藤新平、後藤象次郎などと交流を結び、十九歳で高杉普作、五代才助らとともに上海に派遣されたほどの逸材である。

 美術工芸品の貿易商を営む一方、明治六年のウイーン万博、九年のフィラデルフィア万博の審査官を務め、デザインや西洋陶磁法を土産に帰国。「日本の独創的な工芸品の輸出こそ富国の最大の道。そのため新しい産業工芸が必要」との理念から、地場産業と教育を結ぶ工芸・工業教育を推進する。十年、東京に私立江戸川製陶所を創設。二十年、石川県金沢区工業学校(現・石川県立工業高校)校長となる。

 徳久知事から富山県工芸学校の初代校長を要請されたのはこの頃である。徳久知事は同郷で、石川県書記官時代に工業学校創立に携わり、旧知の間柄であった。

 納富校長の健康はすぐれず、学校へは人力車で通い、校長室に常に布団を敷き、横になって体を休める姿がよく見られたという。しかし、単なる事務校長ではなく、科学者であり、芸術家であり、また技術者でもあった。特に図案を重視し、わが国のデザイナーのさきがけとなった人でもある。

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