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彼谷芳水 ―「勇助塗」を受け継いだ作家―



 本名は芳三、高岡市鷲北に生まれる。明治四十四年に能町尋常小学校を卒業後、すぐに三代石井勇助のもとに内弟子見習として入門し、二十歳(大正八年)で年期を満了。昭和四年に富山県工業試験場漆器部助手となってからは、昼は勤務、夜は作品づくりに没頭するという毎日が続く。その後、県技術吏員を定年退職。伝統の誇りを夢に、作家として新たな人生を歩み始めたのが、芳水五十六歳の時である。

 芳水は幼い頃から十数年にわたり、師と寝食を共にしながら伝承の技を学び、徒弟制度の中で育んだ生活が、彼の人柄の基となっているようだ。それを物語るひとつのエピソードがある。若い頃に相次いで三人の子を亡くし、庭に供養の地蔵尊を建て供え物をしていたところ、そこに雀が寄ってきた。雀が、亡くなった子供たちと遊んでくれていると思った芳水は、それ以来、庭の木々や縁側、仕事場にと、いたるところに穴あき瓢箪を下げ、毎日屑米を与えては雀を愛したという。

 勇助塗は初代勇助以来、唐物を中心とした技術習得の結果、生み出されたものである。材料から加飾までの全工程を、個人の美意識で発展させた木地、塗り、彫刻、加飾の総合技法である。それが独特の雅味をもったものといえよう。

 芳水の作品は、修業時代から戦前までは基本的な唐物が中心であった。旺盛に展覧会に出品した時代から戦後にかけては縞堆朱による作品を発表している。次いで彩漆を重ねた彫漆に石を嵌めた白樺の風呂先。昭和四十年代からは、影響を受けた仏教信仰の一連のモチーフへと、作品は時代とともに変化を見せている。

 芳水は、昭和五年頃から商工展に出品し、昭和十一年の改組第一回帝展以来、文展、日展へと工芸界の変化の渦中にいた。個人的には大きな流れの中にいたものの、自身は工芸の主義主張や中央画壇に左右されることを嫌っていたようだ。争うことを好まぬ性格からも、勇助塗と自分の世界がすべてだったのではないかと思われる。昭和三十五年、日展審査員、同三十九年、県指定無形文化財(漆工芸勇助塗技術)保持者に認定。昭和四十八年勲五等双光旭日章を受章。平成三年、高岡市民文化賞。平成五年、富山県民会館にて「彼谷芳水回顧展」を開催した。

 昭和六十年に初代勇助没後百年にあたることから、伝統工芸高岡漆器協同組合にはかり、自ら石井勇助顕彰碑発起人となって碑撰文を書いた。芳水が老年に至り、かねてからの念願であった勇助への感謝の気持ちがよく現れている。碑は高岡市片原町本陽寺の境内に建立されている。

 芳水は平成六年六月八日、高岡市末広町にて九十五歳の天寿を全うして永眠した。

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