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高岡漆器組合の変遷



一. 高岡漆器購買販売組合(明治四十五年〜大正十四年)

 当組合は、塗装部の中核をなした工人を中心に組織された。業界の発展と組合員の福利を図るため、材料の共同購入や製品の販売を目的として片岡安太郎が主唱したものである。高岡漆器界に初めて設立された組合で、組合員数が四十七名であることから俗に四十七士と呼ばれた。組合長に石井勇助、専務理事に片岡安太郎が当たり、当初は片岡宅を事務所として大正二年、下川原町、同四年坂下町に置いた。




二. 高岡漆器同業組合(大正十四年〜昭和十三年)

 同業組合法に基づいて設立され、産地問屋・業者が結集し販路の拡大、品質保証、信用の保持を主たる目的とした。
 昭和三年には、すでに意匠の新案登録の制度を作り意匠の奨励保護を行った。また、昭和十二年には同業組合検査証規定を作成して、すべての営業品目の品質検査を行い高岡漆器の質的向上を図っている。理事長には大場庄造、二塚安太郎、木勢清太郎、国本吉之助らが就いている。




三. 高岡市銅漆器卸売商業組合(昭和十一年〜不明)

 高岡の銅器・漆器の卸売業社銅器六十五社、漆器四十三社で設立された。主に、東京日本橋蛎殻町にあった高岡物産斡旋所の経営や、東京駅前丸ビルの全国物産陳列所の出品・管理に当たり、需要・販路の拡大に努めた。理事長には銅器の河野常太郎氏が就いた。




四. 高岡漆器工業組合(昭和十三年〜昭和十七年)

 昭和十三年に工業組合を組織。登録組合として勲章箱の生産を内閣賞勲局に陳情して許可を得る。昭和十四年には全国に漆の切符配給制が実施された。昭和十六年に事務所を守山町に置く。理事長には木勢清太郎が当たる。
 昭和十六年に太平洋戦争が勃発して、ますます漆液の入手が困難になった。昭和十七年、芸術者・技術者を保存し、我が国の手工芸技術の廃滅防止のために国の制度が設けられた。その制度が技術者保存制度である。本県では十六名の資格者が漆の配給割当を受けた。しかし、一般用の漆液は御膳や御椀など必需品に対する配給として少量を得たに過ぎない。




五. 富山県漆器工業組合(昭和十七年〜昭和二十一年)

 昭和十七年、商工組合法制度と共に高岡漆器工業組合は、富山県一円の組合に改組された。事業内容は前述の高岡漆器工業組合に引き続き、勲章箱の生産であった。
 しかし、次第に戦争が激化していく昭和十九年七月、当局の指示により富山県統制組合に改組された。重大戦局下に戦争協力を要請する国策に従い、二上航空機株式会社(高山市)の下請として、弾薬箱や偵察用カメラ格納箱の生産などを始めた。しかし、技術の未熟や機械設備の不足から成果は上がらなかった。
 昭和二十年、終戦によって勲章箱はその用途を進駐軍向けの宝石箱や煙草入れに改良していった。理事長には木勢次吉、寺嶋弥作、金丸勝治が当たった。




六. 富山県漆器商工事業協同組合(昭和二十二年〜昭和五十五年)

 終戦後、富山県漆器統制組合が当組合に改組となり、片岡安太郎が理事長に就任した。昭和二十二年には国の補助金を得て高周波木材乾燥機を導入。昭和二十六年には漆乾燥庫を設置。昭和三十一年には合成樹脂素地の塗装研究として油圧プレスの導入などが図られた。
 昭和二十八年、国の産地診断が磯部喜一氏のもとでなされ、組合に対し諸問題が勧告された。このことは業界に少なからずも波紋を投げかけた。そのため、昭和三十年には理事長が片岡安太郎から武田儀八郎(当時の前高岡市長)へバトンタッチして再発足の運びとなった。
 昭和三十三年には日中貿易が中断して漆液の輸入が困難になる。このため、組合の漆液の配給だけでは生産ができず、次第にカシュ樹脂系の塗料を使用するようになった。
 当組合では昭和三十三年に高岡意匠審議会を設立して高岡漆器の保護と奨励に力を入れ、国本一吉が理事長に就任した昭和三十四年頃には販売の拡大などにより高岡漆器の生産量が増大した。意匠保護の問題が高岡だけではなく全国的にでてきたのはこの頃である。
 日本経済の高度成長期に向け、昭和四十年には「富山県漆器意匠審議会」としての内容の充実を図り、また組合事業として需要拡大・新商品の開発などに力を入れた。
 昭和四十五年には、消費地のデパート、問屋、小売店を高岡に招いて第一回新作展示会を開催。この新作展示会は現在も継続中で、平成七年五月で第二十五回を数えている。
 戦後数々の功績を残したこの組合は、時代の推移に対応できず、昭和五十五年に新しく発足された「伝統工芸高岡漆器協同組合」へ合併吸収となった。




七. 高岡漆器工業組合(昭和三十年〜昭和四十三年)

 昭和三十年、富山県漆器商工事業協同組合が改組されたことから、工部が中心となり県組合とは別組織の高岡漆器工業組合が発足した。当初は組合員数も五十名程であったが、資金不足や賦課金の未収などから昭和三十八年頃より活動が停滞し、昭和四十三年には解散を余儀なくされた。




八. 伝統工芸高岡漆器協同組合(昭和五十年〜現在)

 昭和四十九年五月「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が施行された。高岡漆器は産地の振興発展を図るため県や市の指導を仰ぎ、新たな組合設立と産地指定の準備に入った。昭和五十年一月十日、高岡商工ビルにおいて創立総会を行い初代理事長に黒田昌弘を選出し、二月七日に正式登記発足した。組合設立後、昭和五十年九月四日、高岡漆器の産地指定を国より受け、伝統的工芸品産業に関する振興計画を次のとおり推進した。

振興計画
  1. 従事者の後継者の確保及び育成、並びに従事者の研修に関する事項
  2. 技術又は技法の継承及び改善その他品質の維持及び改善に関する事項
  3. 原材料の確保及び原材料についての研究に関する事項
  4. 需要の開拓に関する事項
  5. 作業場その他作業環境の改善に関する事項
  6. 原材料の共同購入、製品の共同販売その他事業の共同化に関する事項
  7. 品質の表示、消費者への適正な情報の提供等に関する事項
  8. 老齢者である従事者、技術に熟練した従事者その他の従事者の福利厚生に関する事項
  9. その他伝統的工芸品産業の振興を図るために必要な事項
 昭和五十五年、同一事業目的である富山県漆器商工事業協同組合を漆器業界の一本化を図る目的で吸収合併する。
 昭和五十八年四月に「財団法人高岡地域地場産業センター」が地場産業の振興を目的として設立され、組合事務局もここに移転となる。このセンターの資料館には、組合を代表する工人が、高岡漆工の粋を集めて作った高岡御車山の模型(実物の三分の一のスケール)が展示されている。また一階の展示場には組合の商業部会が中心となって数多くの商品を常設展示し、販売の拡大を図っている。
 昭和五十九年に国本吉隆が理事長に就任し、平成元年・二年の両年度に「中小企業事業転換対策事業」が進められた。テキスタイルデザイナー粟辻博氏指導のもと室内装飾関連商品の開発を図り、東京・六本木アクシスギャラリーで「塗り・サーフェス・高岡」展を開催する。今までの高岡漆器にはなかった視点から、異業種分野に可能性を探るという貴重な機会を得たこの事業を基に、「株式会社サーフェス」が設立された。
 平成三年より天野隆久が理事長に当たり、平成五年「地域資源等活用型起業化事業」を実施。
先の室内装飾関連商品を集大成した「素材から立体へ、そしてインテリアとしての展開」を発表する。
 平成六年には意匠開発事業の一環として、建築家・黒川雅之氏のデザインによる「百の盆」を東京・銀座松屋にて発表。高岡漆器の「新しいものづくり」は数々の新しい感性を創りだし、各方面から注目を集めている。
 産地指定を受けて以来、第一次、第二次、第三次振興計画の振興事業を推進し、平成七年には第四次振興計画が認定された。


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